昭和50年05月06日 朝の御理解
御理解 第5節
「これまで、神がものを言うて聞かせる事はあるまい。何処へ参っても片便で願い捨てであろうが。それでも一心を立てれば和賀心に神が御座るから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈る所は、天地金乃神と一心なり。」
教祖金光大神様の御教えは、教祖金光大神の御信心によって現れる。天地金乃神様のお心でありお言葉であります。御教えを頂くと云う事は、お取次を頂くと言う事は、お願いをすると云う事だけではなくて、お願いをしたらその返事を又頂いて帰ると云う事なんです。ですからお参りをして、そして御理解も頂かずして帰ると言う事は、丁度お願いだけして、その返事を頂かずにして帰る様なもんです。そういう意義を持っておるのが金光教の御教えであります。
お取次を願うという、又お取次を頂くというその事であります。お取次をお願いしたならば、お取次を頂いたその御返事を天地金乃神様の御返事を、取次者を通して頂くと云う事で御座います。此処へお参りして見える皆さんの場合は、是を取り分け私は切実にそれを感じとらせて頂かなければ、信心は進まないと思います。教祖金光大神が天地金乃神からお受けになられた、言うならば御教えと云う物は、又それを私が言うなら、噛んで含める様に返事の意味が解らない、そこでなら此処では。
神様はこう言う風に返事をして下さるのですよというて、言うて聞かせる様な物であり、言うて差し上げる様な物だと思いますね。昨日はおかげを頂きまして、光昭の結婚式が、まあ私の心としては、二番目の息子ではありますし、出来るだけ質素に出来るでけ内輪に、内輪にと思うておりましたけれども、まあ結局はあの様に盛大な、それこそ私共の子供としては身に余る様なおかげを頂いて、盛大里に終わらせて頂く事が出来ました。昨日も申しました様に。
式から披露まで終わる迄に、いろんな諸準備と云う物を、今度は若先生が中心になって致しましたから、私は神様にお願いをして神様の御返事を頂いて、まあこう云う心掛けでさせて頂いたと云う事を昨日お話致しました。昨日式が始まる前に始まる一、二十分前に、もうここ簾が終えてあって、金屏風が立て回して御座いますけどですね、向こうの方から簾の中に入って、内殿に入って神様に色々お願いさせて頂きました。
そしたら神様から頂きます事が、昨日私竹内先生が両家の御挨拶をなさる事になってました。それで親先生から何か一言、教話を頂きたい御理解を云わば頂きたいと云う事で御座いましたから、中に私のまあ挨拶なりそれをそのまま教話であったとこう思うのですけれども、その事をどう云う様な事を話さして頂こうかと、思うて御神前に出ましたら白扇を頂きました。所がその白扇の肝心要の所、その要がない白扇でした。
それでその事を皆さんに聞いて頂いた訳で御座いますけれども、皆さんのあれだけ沢山の人の祝福を受けて、そしてあの様に目出度い結婚式になりましたわけですけれども、どの様に皆んなから祝福されましても、矢張り神様の祝福と言う物ががなからなければならない。第二の人生と云われる結婚と云う事が、その結婚を境に愈々おかげを頂いて行く事の為には、丁度神様が末広の言わば愈々おかげを下さろうとする働きがあるに違いはありませんのですけれども。
問題は是からは二人の信心二人の心、言うなら肝心要の心が出来なければならないと云う事を、私が丁度持っておりました白扇を、皆さんに見て貰ながら聞いて貰ました。この要が如何に広がっても、要が緩んでおったり無いのでは、白扇としての値打ちがない。肝心要がしゃんとしておって、始めて広がれば広がれ程、益々家繁昌子孫繁昌と言う事になるのだと。だから今後共どうぞ愈々皆さんのお祈り添えをお願いしますと言った様な事で、一口でしたけれどもお話さして貰ました。
まあー夕べは壮年部会でした、それで私は一寸お神酒が過ぎとりましたから、うっかりしてもう此処の御祈念がすんでからですから八時半か九時であったでしょう。ああ今日は壮年部会じゃったと思うて、それからあただに出て参りましたら秋永先生、繁雄さんそのまま残っておられたそうですから、何時ものメンバ-の方達が共励をなさっておられました。それでその中に色々とお話を聞かせて頂いたんですけれども、秋永先生が丁度話をしておられる所へ私が参りました。
昨日結婚式が始まる前に私が、つっとその横を通らせて頂いたら、親先生がもう式が始まろうというのに内殿に、御神前に出て一生懸命御祈念をなさっておるのを見て、大変感動したと云う事を言っとります。ああ私に欠けておる、私が一番悪い所は此処だと思うたと云う事を今日、秋永先生が言ってその事を話しております。そりゃ神様はああいう忙しいたけなわの事が、今から始まろうとしておるその寸前に、御神前に出て一心不乱に例えば御祈念をしておるという、姿に触れた時に感動しておる。
その感動が昨日一日の仲人としての御用を何か筋金が入った様にまシャンとした、そして私に欠けておるものはとあれだと思うたと言っております。壮年部会を終わらせて頂きまして寝まして貰って、もう一時半頃だったでしょうか何かけたたましゅう、騒いでおりますから起きて見ましたら、直子が居ないという三番目の娘、それから探しまわった所が新館の便所の中で気絶しとったという。
あれを見付けるのかあそこは普通使用しませんからねえ、新館の方は。それを早く気付かして頂いて、それから皆んなでておざおして、あの人が寝んどる部屋へ連れて行って意識が出ている所で御座いました。私は丁度それ前にお夢を頂いておった。そのお夢というのが大水が引いているのです。大水がもう引いてしまった後に、あれは何と言うですかね、穢土(あど)と言うですかね、後にノロノロとした泥が残りますよね。
大水が引いた後は。だから大水が引くと同時に洗わなければ、後で中々取り難いと言われております。それを洗ってないものですから、ドロドロしておる所で、誰かが滑り転んでおる所を頂いた。ははあ私がそのうお夢を頂いてからはぁ、云わば大水と言えばおかげの頂き過ぎと云う事ですね。お水がお恵みなら、大水ですからおかげを頂き過ぎだ。例えば昨日の結婚式などは、それこそ身に余る様なおかげを頂き過ぎた。
それがサア-と引いてしまった。後を洗ってないもんですからね、そこで人が滑り転んでんだ そう云う様な事、云うならば皆さんがおかげを頂かれて、やれやれと気を抜くと云う事がいけんのです。あぁおかげを頂いた。例えばお祭り等致しますね、御大祭なら御大祭、もうやれやれと気を抜く事がいかん。宅祭なら宅祭をヤアヤアー言うて、仕える事には一生懸命ですけれども、終わった途端に気を抜く。それがそこで又お気付けを頂く様な事がある。まぁそのお気付けを頂いた様な感じで御座いました。
と言うておるそう云うお夢を頂いて、そう云う事を思とる所へ、その丁度様子が聞こえて来ましたから出て参りました。そしたら丁度意識を吹き返した所で御座いました。それから又後片づけやらなさっとられる方達やら、挨拶して寝まして頂いたんですけれどもね、例えばこのう、昨日一日の事を皆さんに聞いて頂いた訳ですけれどね、本当に神様が何時も願うた事に対する御返事を下さっておると云う事が解るでしょう。私が皆さんに聞いて頂かなければ皆んなその話ばかりです。
誰々さんの事をお話させて頂いとったら、神様からご返事頂くから、それを御理解として皆さんに聞いて頂くのですからね、又はその秋永先生が私の御祈念をしておる姿に触れて感動した、そして自分に一番欠けておるものは、ああそこだったと教えたり解らせたりすると云う事は、返事ではないですけれども私の信心姿勢その物が、皆さんに対する御返事です。私はその位にです、私はおかげを頂いておる。
この方が祈る所天地金乃神と一心なりと教祖金光大神が仰るなら、私はね私が大坪総一郎祈る所、生神金光大神の心と一心なりと云う事も又言えると思うのです。ですから此処は御教えそのものが、神様の云うならば御返事であります。けれどもそれを噛んで含める様に又解らん所はね、いうなば中国語なら中国語で神様が下さって下さっておる様に、大変至難な難しい御教えが御座います。それをなら、私が日本語に訳して皆さんに聞いて頂くと言った様な訳なのです。ね。
ですから如何にその聞いて帰る返事こそが大事であるか、その返事を聞いたならば、その返事を承ったならば、それを行じ守らなければならないかと云う事を、皆さんに悟って頂きたい。又おかげを頂いておる人達の姿というのに触れたら、そこにそれに交流する。それを感銘を深く出来る心の受け止め方。ここの横を人ならば、恐らく秋永先生だけじゃありません。何人も見たかも知れません。
けれども秋永先生程にそれをキャッチしておる心で受け止めておると言う人は無かったのではなかろうかと思うのです。ですから如何に自分の心の状態と云うものがです、神様に何時も通う状態頂いた返事をサッと自分の心で咀嚼出来れるだけの信心が身に付けておらなければならんかと言う事が解ります。返事を頂いて帰っても、それは只帰っただけではいけない事、又返事を頂いて帰れた事が私はお道の信心の有難い所だと思いますね。
どうぞ。